Note:14

泣きたくはないし、泣かないでいて欲しい。

そして私の仕事は伝承を捏造することに変わった。それはあくまでただの仕事なのだから。たとえそれが歓喜の酒であろうとも、結果として体液にしかならないのなら、女神の酌だろうが、寂れたスナックだろうが同じ事なのだ。

私の目が世界を舐めつくすように回る。
その反動で、積み重ねた理論の隙間に指を差し込んでしまった。
おそらく時が来たのである。

甘く延びた月の影で愛し合う。もちろん彼らはその月のことを知らない。
メゾンは文字通り、すでにとろけている。
甘いシモンは知らない月の上。

もちろん彼らはその味も知らない。
美しく閉ざされた自己完結をこじ開けるべく、私は当然のようにバールを手に取るべきなのだろうか。何もないユートピアを望みながらも。

彼女の腱が奏でるエロティックな旋律が私の気を紛らわせてくれていた事に、そしてその重要さに気が付いた日に。そしてそれは同時に、情熱の中にはロマンスなど存在しないと教えている。

飽和、ということなのだろう。

それは愛によって深く定義された。とどのつまり、私の分離症的な側面は未だ、穏やかな揺らぎによって形成されているのだ。

午後十一時、彼はロングハッターズクラブでそんなことを考えているはずだった。
ただ今は薄いグラスにまとわりつく(マトワリツク)霜が鬱陶しい。
自分のだらしなさを呟く耳障りなトップチャートが麻薬のように染み込んでくる危険な夜に、破壊衝動とともに押さえつけられたのは、人々がいうところの個性とやらだったのかもしれない。変わろうと信じた自分は、それ故、燃えつき始めている。世界に正確な直線が存在しないのなら、いつかは交われるはずなのに。

私はいつも身を焦がしているのだ。

Note:13

雪の合間のある晴れた日。
シャーベット状の雪を不快そうに踏みしめながら、少年は一人、雪の乱反射に静まり返った妙によそよそしい町並みに帰路を辿っていた。空は薄く鼠色に侵れ、日中の陽光に晒された、形を失った午後四時の雪だるまは履き潰したスニーカーの隙間から入り込み、少年に交わろうとしてくる。
少年は冷やされていく指先も気にせず、昨夜から頭を離れない友人の言葉を反芻していた。
「春が来ている」
友人は嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに言った。
少年はそれをぼんやりと、何か他のことを考えながら聞いていただけだったのだが、友人の言葉の残響はいつもでも少年の耳を離れることはなかった。

少年は遠回りをすることにした。いつも直進するはずの大通りを右に反れ、溝沿いの裏道を密かに歩んでいく。雪のせいで水嵩の高い溝や、千両と白い世界とのコントラストは幾分気持ちを軽くさせてくれた。やはり自然の変化はいつでもそこにあった。芽吹いていく新芽の姿や砂浜の引波の幽玄さ、落葉の力強さや新雪の喜びも少年は知っていた。しかしまだ、この春の訪れを少年は感じることが出来なかった。それは悔しくもあり、喜ばしいことでもあった。数少ない年を数えた少年にとっては。

拾った枝でいたずらに小さな雪崩を起こしながら曲がりくねった細い路地を抜け、いつもの大通りにあたった時、不意に、東から吹く風が春を少年に運んで来た。少年は覚醒と共に「レバンタール」と呟いた。何故だかは解らない。意味も知らない、その啓示のように降りてきた言葉に少年は身震いをした。
あるいは悦びはそこにあるのかもしれない。

Note:12

私は彼女の右目が好きだ。


いつもと違う銘柄の煙草の煙は心なしか色まで違ってみえる。その風味以上に見慣れない煙の色が部屋を霞ませていく。


私は記憶の中で彼女の大腿部の滑らかさをなぞる。


渋味の強い紅茶さえ、違和感無く日常に入り込んでくる。水色に染まったカーテンの裏でフィリピーナの提げる買い物袋がかさかさと音を立てている。伝統へ続く細長い小道に向かいながら。


私は私の耳に届いた彼女の音声と、その時鼓膜を揺らした何かが異なっていることに気が付いた。


雑踏の外れのカフェ、テラス席。
午後三時の強い日差しはピルスナーを誘惑し、異質な場所に乾いた喉を刺激する。そして感動は滑り込み、道を行く他人さえ愛おしく思えてしまう時、「平和」だなんてそこら中に溢れている言葉でしかなかった。


私は彼女の巻き上げられた睫毛を至って冷静に眺めていた。


時計は与えられた任務を(文字通り)機械的にこなし続けている。親指は応答を求め、斜めに落ちる前髪が断続的にそれを遮っている。ありふれた午後四時(無数の姿の見えない雀たちの木)。


私は視線によって外界と隔てられた彼女の輪郭を想像する。


デスクの上に投げ出されたモノクル。窓の前で煙草をふかす男。午前二時。 
雪の上には子供たちが残した形跡が。


彼女は肢体も露に時を刻む。


午前四時、私は視覚に囚われている。

Note:11

私は合法的に美しさ(らしきもの)を垣間見た。
蔑ろにされ続けて来た望みは今、選択を変え、恍惚を引き連れて歩いて行く。
その意欲は純粋に方法と化すことであろう。
雪は無くとも、鈴の音はこれからも束縛されることはないはずだ。

水の中で生活する人を見た。
魚は眼前を泳ぎ、都市は沈んでしまっていた。
それでも雨は古代のスピードで降り続き、その影は光となり、星空は今日も煌めいている。

彼女にとっての幸福は、イメージせずとも手の届く範囲で事足りていた。
不平を吐露できる自由を彼女は愛していたからだ。
だから彼女は今夜も平穏な眠りについた。
明朝への期待を枕元に携えて。

Note:10

ゴム引の外套。
眼底が軋むように痛む。

透明な結晶の乱反射は緊張感を促し、私の視線はなだらかな曲線上を彷徨い続ける。一種の提案は予期せぬ哲学的意味合いを発生させ、私は被害妄想の前歴をパターン化し始めた。その時、強く黄味を帯びた映像が言語としての「幸福」の罪を暴き出したのは何の暗喩になるのであろう。もはや刺激は氾濫してしまい、その機能は失われてしまったと言うのに。

ミルと名付けられた兎は完全な球体に映し出された姿だった。
それは未来を映すように醜く歪んでいて、私にはそれが現在の自分自身であるという確証が持てなかった。
しかし、極彩色の蝶が宇宙に向かい飛ぶように心に浸透させた空は、今も青く透き通っている。

揺られなが見た夢の前近代アジアに彼女は恋をした。
そこに捨てられていた破片を拾い集めてはドイツ製循環機に放り込むことしか出来ない夢であったとしても。
パターンの計算は終わっていない。
1300ccの白バイは彼女にとってただの道具でしかなかったのだ。
流れる景色は直線に重なり、番人が酩酊していることなどは明らかだった。

私は未だ、滴る薬草酒の速度には追いつけないままだ。
徐々に希薄になっていく事柄に対して、今夜も事情はモラルを待つことはない。拡張された体温に溶けてしまえるのなら。

そう、”それ” が長く続かないことを彼女は自覚している。
しかし “それ” は形を変え、再びどこかで現れるであろう。
喜ばしいことだ。

ミルの姿は今は見当たらない。

Note:9

私は自分自身の幻影に取り憑かれてさまよう残党兵のようなものだ。

脈絡も統一性もなく、ただ淡々と強かに紡ぎ出される音階を耳にして、私は観察と解析を始めた。

私家版乱数表から関係を導き出す意味はなく、事象を図形として認識しさえすれば、提示された曲線美を舌で確認することは侵略と敗退を繰り返していくことになる(それは時間が証明している)。その後、正しさは破壊され、見過ごされている道端の量子の世界から答えたちはランダムに発射されていく。

彼の乗った四輪バギーは大いなる二律背反を燃料にウランバートルを越え、真冬のユーラシアをアララト山に向かい疾走していた。

彼女の音楽は共鳴することをやめ、システムが崩壊へ向かっているように歴然と、ただぼそぼそと何かを呟く。

メルトダウンしていく甘い果実。
頭の中のタンバリンの演奏は止まらない(演奏者は2、30人の紳士淑女。鋭角に整えられた口ひげは電波塔のように高くそびえ立っている。揃いの地下足袋がやけにまぶしい。スラマ ミアウ ユヒト……)。
入り組んでいる数式をパンで振り分け、その同心円上に要塞を建設するように命令を下す。これで人類史上初めて絵画を建設したのは私ということになるだろう。
もはや “描く” 必要はない。

人は人のまま、体内に帰還する。

Note:8

昨夜の雨はどうも世界を冷やしてしまった。

外套の襟を立てながら家路を急ぐ彼に、路地裏から冬が忍び寄ってくる。

彼女はその美しく整った唇を押し当てる。

刹那の彷徨とともに視界は氷に覆われ、活動を止める。

舞い落ちる楓は紅く、粉々になってしまった。

燃える灯油の甘い香り。

物理的発想への長い道程。

Note:7

あの子は彼の存在を認識し、古い記憶を辿る。
その断片を継ぎ接ぎし、再生させたものは別の何かになりすましている。


私は三人称を用いることで自分を肯定する努力を始めた。

少年は眠っている蜘蛛を意識しながら、呼吸とともに煙を吸引し続けている。

そう、君の言っていることはわからないし、理解したくもない。

眠りに落ちる準備はとっくに出来ていた。

Note:6

胸像の隙間でビデオテープは冷静に破壊された。
夜も更けた頃、私は幼い息子と共にある饗宴に向かう。
にわかに降り出した雨も気にせず、息子は大事そうに腕の中に一本のワインを抱えて意味深に微笑んでいる。
私はといえば、眼前をちらつく羽虫の数を数えながらアルコールで麻痺した身体を引きずり彼の後を追う。

そう、私は裁かれにいくのだ。

境界などありはしない。
ここには有り余る日常と全ての概念的時間しか存在していない。
図らずも果たされるであろう目的は、次の標的を定める間に急速に意義を失っていく。

Note:5

垂れ流されるイメージの断片を掬い上げる。

背中に描かれた色彩が純白のシルクのシャツから覗いている。

真新しい階段の上から双子の片割れがこっちを見下ろしながら、同じことを何度も別の方法で語り続ける。

果たして、幻想はそこに在るのか。それとも、そこは幻想なのか。